no pleasure, no life(旧ブログ名:まちづくり、例えばこんなふうに)

意固地になるほどに"まちづくり"が気になって仕方ない。自分の関わったまちづくりの活動・調査の記録を中心にしつつ、"都市""街の変化"の話題など。 Keyword→まちづくり/都市計画/荒川区町屋/蒲郡/豊橋/三河/谷中

平和に関する違和感と自分の中の葛藤と

集団的自衛権、行使容認反対63% 昨年より増加 朝日新聞社世論調査:朝日新聞デジタル

 

最近のこのあたりのニュースを見ながら思うこと。

 

社会的責任に目を向けることなく、

「戦争は嫌だ」「平和主義」という耳障りの良い言葉だけ叫ぶのって違和感あるな、と。

 

 

集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈に反対する人の多くは、

「戦争なんてアリエナイ」「日本が戦争に関わるなんてアリエナイ」

というところでしょう。

 

※「憲法解釈の変化ではなく、国民意見を問うために正式な改憲手続きをとるべきだ」というような、単に手続きの点から集団的自衛権行使容認に反対する人は少数ではないかと勝手に感じています

 

 

一連の集団的自衛権の話を確認。

これまでの憲法9条の解釈では、

自国が攻撃を受けた際の防衛行動、「自分の身を自分で守るために反撃する」という限定的な意味での自衛権【個別的自衛権】を行使することは可能でしたが、

日本と密接な関係にあるA国がB国から攻撃を受けた際、A国を守るためにB国を攻撃するという軍事行動「友達を守るために反撃する」という【集団的自衛権】を行使することは許されないとう解釈がされてきたわけです。

 

第二次大戦後も国際社会は様々な紛争を経験してきましたが、

日本はそれに対して最前線に参加することはなく、

後方支援的な役割にとどまる特例が許されてきたわけです。

 

太平洋戦争における悲惨な侵略行動や、唯一の原爆被爆国であるという歴史的背景があるからこそ、

こうした特例が日本国内においても、国際社会においても支持されてきたのでしょう。

 

しかし、特に近年の日本の平和は、アメリカの軍事力、睨みによって守られているという事実から目を背けることはできません。

日本が決定的に手を汚さずとも、現状においては軍事力・核兵器等のいわゆる【暴力】が国際平和の維持に貢献しているわけです。

 

そんな中で今回の集団的自衛権行使容認の動きは、今まで日本が許されてきた特例的状態に対して、

「そろそろ国際平和に対して、少し責任を果たさせてもらおうかな」というように、重い腰を上げ始めたものだと感じています。

命を懸けて戦う米国の背中に隠れて「平和大好き」「戦争とかアリエナイ」と叫ぶのみではなく、「ちょっと手を貸そうか」と提案する、至極当然のことを意味するのだと感じています。

 

 

今や戦争を知らない世代が人口割合において圧倒的に増えました。

ほとんどの日本人にとって、生まれてから今まで日本はずっとずっと平和。

自分の手を汚さずに「平和」という果実にありつくことに慣れすぎました。

 

そんな中で、ジャイアンに守られたスネ夫状態にある日本は、

いつまで「僕は平和主義だから喧嘩はしない。ジャイアンが守ってくれるから」と言い続けることができるのか。

 

そんな違和感を感じています。

 

■■

 

集団的自衛権のニュースを聞きながらなんとなく感じていた違和感を文字化してみたら、

かなりラディカルな感じになってしまいました。

この分野に対しては不勉強ですし、正確でない記述も多いでしょう。

 

そして更に違和感なのは、

こんなことを書いている自分は「戦争なんてアリエナイ」と思っている一人であるということです。

命は惜しいし、身の周りの誰が巻き込まれるのも我慢ならない。

 

集団的自衛権】の行使容認は、日本が国際紛争に巻き込まれる可能性を圧倒的に押し上げることを意味します。

これは戦争を経験した世代からすれば、地獄の再来であり、とても容認できないものでしょう。

ただ、そうした世代にとっての平和と、戦争を知らない我々世代にとっての平和は、明らかに意味が違うと感じています。

 

前者にとっての平和は、自身が戦ったからこそ主張できる「平和」。

後者にとっての平和は、当たり前にそこにあるのだけれど、無くなると困るから一応叫ぶ「平和」。

 

昨今の集団的自衛権に関する議論は、日本における「思考停止的平和」を再考させる機会のような気がしています。 

 

まとまりませんが、今日はこんなところで。