no pleasure, no life(旧ブログ名:まちづくり、例えばこんなふうに)

意固地になるほどに"まちづくり"が気になって仕方ない。自分の関わったまちづくりの活動・調査の記録を中心にしつつ、"都市""街の変化"の話題など。 Keyword→まちづくり/都市計画/荒川区町屋/蒲郡/豊橋/三河/谷中

【エッセイ】誰かのための自分じゃなくて

趣向を変えて、ごくごく個人的な、内面的なことも書いてみる。

 

最近強く思うことは、ここまで自分の価値観が凝り固まってしまったのはなぜなのか?ということ。

ここを超えないと、前身も後退もできずに立ち止まっているだけだと痛感しているので、整理してみる。

 

自分は、これまで大学や大学院で燻ってきた背景や、

ノブレス・オブリージュ”の偏った解釈による後押しによって、

「自分は社会に対して、何か革新的なことをする人間なのだ」という思い込みをしてきた。

 

具体的には、都心での長い単身生活経験で感じた孤独感や、まちづくりを学んでいたバックグラウンドから、

「誰もが排除されず、世代や属性による壁もない地域社会はどうやって築くのだろうか」という教科書的な価値観を持つに至る(つもりになる)。

これが偶然「少子高齢社会」「共助精神の減少による公助への圧迫」という現代日本のわかりやすい課題と重なり、あたかも自分の価値観が時代の要請と合致したという幻想を持った。

それがそんな価値観を勝手に後押しもした。

 

地元活性化のために故郷へ帰って活躍する先輩や、

若者世代の価値観がマイノリティとされる政治システムを変えるために政界へ飛び込んだ先輩、

そのほか、企業内で企業戦士として生きるという以外の選択肢を選び、組織や立場にとらわれない若者が数多く生まれ出ていることを知り、

自分もゆくゆくそんな生き方をしたいという憧れを持った。

 

反対に、会社での時間をひたすら耐えて、“土日の自己の解放”ために人生を送るような快楽主義の友人達を侮蔑の眼で見ることもあった。

 

今春、ようやく長い学生生活を終え、いざ学んできたことを社会に役立てるのだと鼻息荒く社会へ出た。

でもまだ個人で社会に打って出るには蓄積や準備が足りないということで、

昼間はもちろん仕事に集中するものの、それだけではダメだと、資格取得の勉強をしてみたり、こんなブログを書き始めて“何者か”になろうとしてみている。

 

しかし、それでいいのかという意識も持ち始めた。

それは、そんなに何かを頑張ったところで、そこまでして目指すものなんてないのではないかという違和感を持ち始めたから。

当初抱いていた自分の価値観が、論理的に積み上げられたもの以上ではなくなっていた。

 

不明瞭な何かのために、オンもオフもなく常に気を張る生活。

それは大学院までは当然のことだったのだけれども、社会に出て生活時間の半分が仕事となると、残りの時間の使い方が重要になってくる。

レクリエーションという選択肢を排除して(というかそもそも考えることもなく)、ただただ社会のことだけを考える生活を息苦しく感じ始めてきたところで、今まで無視してきた価値観の根源がわからなくなってきた。

 

余暇をうまく使うことができなくても、勉強や何か生産的な活動をしていれば、「少なくとも後退はしていない」という安心感を得ることもできた。

むしろ、ただ買い物をしたり、街をぶらぶらしているような時間を“浪費”だと感じ、何か生産的な活動をしていないと不安感を抱くようになったところで、こんな生き方は全く健康的ではないということにはっと気づいた。 

 

そこを下りれば、ラクになれるのに。

 

どうも個人的な幸せどうこうを考えずに、というか“自分が幸せになれる自信”のようなものがないから、滅私奉公的な行為に走って誤摩化しているだけではないかという疑問が出てきた。

滅私奉公的な行為は鎮静剤になるどころか、俯瞰的な目線から学級委員的な“上から目線”を可能にするから、どこか自分もそんな彼らより上に立ったような気分も持てたのかもしれない。

 

周囲の多くがが結婚して家庭を持つようになり、「あちら側」へ行ってしまう。

彼らの生きる目的の中に、「身の回りのものを守るため」の割合が劇的に増える。

家族のため、というわかりやすくもかけがえのない価値観のもとで生きられるようになる。

 

そっちの生き方のほうが、よっぽど誇り高いことじゃないか。

 

そこが不安だから、これまでは逃避的に社会のことを考えればよかったのだけれども、それは「あちら側」へ行くことを拒むことを意味しているわけで。

 

自分のそもそもの価値観は、どこにあるのかなと。

風通しが悪くなってきた。

 

 

間違いなく、自分が幸せになるほうが先で、そこを第一に考えないと、いろんなところで歪みがでてくるんだろうな。

これまでの自分の生き方を否定することはしないけども、マイナーチェンジをしないと危険だな、と感じる。