no pleasure, no life(旧ブログ名:まちづくり、例えばこんなふうに)

意固地になるほどに"まちづくり"が気になって仕方ない。自分の関わったまちづくりの活動・調査の記録を中心にしつつ、"都市""街の変化"の話題など。 Keyword→まちづくり/都市計画/荒川区町屋/蒲郡/豊橋/三河/谷中

なぜか資格試験を受けてないと落ち着かない危機感を悲観的に考えてみる

胸を張って主張できる大きな目的があるわけでもないのに、働き出してから1年未満で、既に資格試験・検定試験を4つも受けています。

 

ここで私の経験からのお話を少し。

”資格を数多くとる人”に抱かれがちなイメージって、”要領・効率のよさ””向上心”といったプラスのものよりはむしろ、

とりあえずレベルを上げて自己肯定感or達成感を得るけど、本来の大義からは逃げている人生迷子”というマイナスなイメージをもたれやすい印象があります。

 

実際、私もそれです。

 

・・・少し説明を加えましょう。

 
受け始めたもう少し詳しい理由は、いくぶん拍子抜けですが、まとめると【社会人になったからこそ勉強をしなくてはという危機感】から。
もちろんそれも、分ければいくつかの方向があるのだと思います。
 
 
①働き出して特定の立場になったことによる、"停止"への恐怖
固着、定着、馴れということが怖かったわけです。
それは自分の中の可能性が限定されて止まることを意味する。
常に自分の可能性を広げていたい、広げようとする自分でありたい。
未来へ向かって先細っていくのではなく、広がっていきたい。
 
でも、それは覚悟のなさと言える。
特定の立場についたことを、「ここで腰を据えて頑張ろう」というふうに捉えることに怯えているということ。
優柔不断だということ。
無目的に可能性だけ拡大を拡大する行為は、モラトリアム期のみに許されるレベル上げでしかありません。
 
 
②費やした努力が結果に比例する、数少ないゲームだから
仕事も恋愛も、友人関係など、今後の人生において、かけた努力がそのまま結果につながる分野はどれほどあるのでしょう。
逆に、何を頑張ればいいのか、理不尽なことのほうが多いことばかり。
 
そんな中、知識を覚えるだけの勉強、そしてそれが目に見えて結果に比例する資格取得というある意味で仮想現実的な行為は、温室で育った人間にとって非常に取り組みやすいわけです。
そしてその限られたヴァーチャル世界の中でだけは、厳しい人生を忘れることができる。
 
でもそんな生き方は、
「とりあえず資格は、邪魔にはならないから」
「持っていて損はないよ」
というような、資格にまつわる、ぜんぜん積極的に褒めてはいない言葉そのままに、中途半端なわけです。
 
 
勉強を続けている、という状態は世間体よいし、とりあえず
”すごいね、頑張ってるね”と言ってもらえる候補にはなるわけです。
 
 
 でも、それは箱庭の幸せでしかなく、ちゃんと長期的な計画のもとで自己研鑽をしていくような姿こそ健全ではあるのだと思いますが。
ここまで書いてみて、このことが危機的なことだとわかりました。。。笑