「かいまみvol.2」終了後の雑感。
さてさて、「かいまみvol.2」が終わりました。
終了後の速報は昨日のエントリにて案内してますが、もう少し総括的なものを。
誰でも、人より少しだけ時間やお金をかけて、磨き上げてきたものがある。
それは学術的な専門分野に限らず、仕事であるがゆえに四六時中否が応にも向き合わざるをえないものだったり、はたまた生まれ持って置かれた環境ゆえに対峙せざるをえないものであったりします。
たとえその道のエキスパートとまではいかなくても、たとえその分野において社会的な認知を得ていなくても、そんな知識やストーリー自体がコンテンツになるのではないか。
そんなことが、イベントとしての「かいまみ」を貫く理念だったりします。
著書を持つほどの権威でなければ、当然安価に、でも聴衆としては近い立場にいるわけなので、心にすっと入ってくることができます。
ましてやそのことをただひたすら好きな人、そんな人に語ってもらえるのだから、聞くことは楽しいに違いありません。
クロージングの時に時間がないながら表現したかったのは、そんな粒ぞろいのコンテンツを、交通整理もせずに浴びることの面白さでした。
今まで考えたこともなかったこと、知らなかった世界のことを少しだけ味見できる。
しかも味わう前はその刺激が甘いのか痛いのか、酸っぱいのか苦いのかもわからない。
そんな状態で物事をインプットする機会は、この社会において驚くほどありません。
否、各人は意識的にか無意識的にか、自分の受けるべき刺激を事前に取捨選択しているきらいすらあります。
仕事場や研究室のような目的型組織であれば、自然と話題はその分野のことになるほか、唐突なプライベートや過去を探るような話題が出ることはきわめて稀でしょう。
それは精神的な平穏を保つためであったり、社会的な波風を立てないことであったり、理由はいくつか考えられます。
無限が心を不安にさせるということもあるでしょう。
20代も後半を過ぎたところで、この世にはあまりにたくさんの事物に溢れていることの途方のなさを痛感し、一回や二回くらいの人生ではそれら全部を味わいきれないことに気づきます。
そんな中にも関わらず、心に絶えず新しい世界を増やしていくことは、きわめて曖昧かつ相対的な感情である”幸福”を感じるための足枷にすらなりうるでしょう。
”足ることを知る”。それは皮肉なほど消極的な言葉ですが、加齢に連れて理解しなければいられなくなります。
”このくらいが幸せなんだよな”と、感じることができるからこそ幸せになれるということ。
まあ、そんな難しいことではないのです。
日々なんとなく閉塞感を持って過ごす中、ポンと気分転換を得る機会。
本イベントで提供される話題は様々ですが、それらは新たに悩ませるようなことではありません。
あくまで物陰から覗き見るような気軽な心持ちで、少しだけドアを開いてやるところに意義があると考えています。
勉強や仕事に行き詰まったら、少し伸びをしたり外の風に当たったりして、頭を切り替えるような感覚。
そんな体験を提供することが、「かいまみ」のもう一つの意義であると考えています。
もちろん、ひいてはそんな感覚がやみつきになって、”かいまみることは楽しい”という人が増えていくことになると、事業としての「かいまみ」の可能性も広がるわけですが笑
至らぬところはあったものの、社会人の休日としてはなかなか面白い試みができていると感じています。
第3回はもちろん未定ですが、そう遠くはないのかもしれません。