【道楽記事】機動戦士ガンダムから(飛躍して)、個人と世界との関わり方を考える試行
(amazonより)
先日、ガンダムUCの完結編である第7話を劇場で観てきました。
ここ最近では、2年に1度あるかないかといった程度。
一方で、ガンダムシリーズを見始めたのは大学四年生頃からなので、つい最近。
当時テレビ放映されていた「機動戦士ガンダム00(ダブルオー)」(2007年放映開始)の頃に観始め、少しずつのめり込んでました。
マニアに比べれば熱狂的とは言えないまでも、明らかに人並み以上にガンダム好きな人になってしまいました。
さて、今回のエントリでは、観終わったガンダムUCの感想レビューをするということではありません。
(こちらのサイトより)
(こちらのサイトより)
の二人。
彼らの立ち位置の違いが、なんか自分とか現代社会にも当てはめて考えられるなあということを薄々と思っていたので、
今回はそれの言語化を試みてみます。
テーマは「個人と世界の関わり方」で、
キーワードは「人類の可能性を信じられるか?」ということ。
なお、ここからは宇宙世紀シリーズ(特に「機動戦士ガンダム(以下、ファースト)」「機動戦士Zガンダム(以下、Z)」「機動戦士ガンダムZZ(以下、ZZ)」「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(以下、逆シャア)」「機動戦士ガンダムUC(以下、UC)」)を前提に話を進めます。
【5分でわかるガンダムの世界】
知っている人からすれば当たり前な話ですが。
ガンダムの話の焦点は、単純な勧善懲悪ではなく、疲弊した地球環境をいかに救うかという状況の中での思想対立にあります(と、個人的には捉えています)。
物語の舞台は近未来の地球で、悲願であった世界統一国家「地球連邦政府」を実現した人類。
彼らは地球の許容能力を超えるほどに増大した人口に危機感を感じ、その活路を宇宙に求めて「宇宙移民」を開始。ここから宇宙世紀(Universal Century)が始まります。
地球環境に似せたコロニーをいくつも作り始めて半世紀、そこで生を授かり、一生を終える人間「スペースノイド」が100億人以上にものぼるようになりました。
一方、地球にとどまった人類は「アースノイド」と呼ばれます。
コロニー=植民地、つまりスペースノイドらは事実上の非抑圧者・被差別者として扱われていたわけです。
ここにアースノイドとスペースノイドの対立構造が生まれるわけです。
そんな中、スペースノイドから傑出した思想家、ジオン・ダイクンが現れます。
彼は地球を自然のままにしておくべきだという地球聖地論(エレズム)や、「宇宙生活者の自治権確立」というスペースノイドの精神的支柱とも言えるコントリズムを唱えますが、その中の一つに「ニュータイプ思想」がありました。
彼の主張するニュータイプ思想の概要は、
「宇宙に出た人類は、その広大な環境に適応するために新たな潜在能力を開花させ、誤解なく理解し合えるようになる」
というもの。
つまりは、
「人類は新しい生活環境に出たことで、いずれお互いを誤解なく分かり合えることができる。戦争もなくなるだろう。」という思想。
人の可能性を愚直に信じる、とんでもない性善説的平和思想なわけです。
そして激しい戦争の中は人の革新を促してか、実際にニュータイプ的素質を持つ人間が出現し始める。
しかし悲しいかな戦時中という背景により、ニュータイプの発現によって強化された潜在能力の中でも、特に戦場における瞬発力や洞察力など第六感的な部分のみが、戦場において重宝されるようになる。
宇宙に出て、生活環境が変化することで、その一部に進化の兆しが起こるものの、
やはり戦争によりお互いを滅ぼし合う人類。
やはり戦争によりお互いを滅ぼし合う人類。
世界から、人類から、果たして戦いがなくなることはないのか?
【二人の主人公】
アムロはとあるコロニーで生活していた普通の学生。
一方のシャアは前述したジオン・ダイクンの実子。
ファーストでは、地位のために父を暗殺しジオン公国を奪ったザビ家への復讐に燃えますが、それ以降の世界では「アースノイドによって汚染された地球をいかに救うか」という父を継ぐ信念に基づいて行動していきます。
「汚染の危機にある地球を救う」
という信念のもと、地球に残りあぐらをいて開発・汚染を続行する連邦上層部に対して抵抗活動を行ないます。
この時期において二人は、アースノイド一般に対する明確な敵意によって行動するわけでなく、むしろ軍部や支配層に対する抵抗としてそれぞれが活動している印象です。
しかしその後シャアは、いつまで経っても変わらない地球人に絶望します。
小惑星落下によって、地球の環境を著しく変化させて人が住めない惑星にすること、
もしくは無理矢理にでも人類を地球から追い出し、地球の環境を守ることに目的があったわけです。
暴力的ながら、地球を救おうとしました。
これに対してアムロはシャアの傲慢な態度に怒り、その前に立ちはだかります。
そして革命的な活動を批判し、漸進的な人の変化、人の可能性を信じるということをシャアに訴え続けます。
小惑星が再び宇宙空間に押し戻され、地球は命拾いするという結果になりました。
さて、前置きが長くなりました。
主人公の一人シャア・アズナブルの価値観は、善意に基づき、全体の目的・結果を過剰に優先する考え方だと言えます。
人類を生んだ母なる地球を、なんとしても守る。
そのためには、地球を汚染する人類をなんとかしなくてはならない。
一作目では、スペースノイド一部の利益(とザビ家への復讐心)に基づいて行動していましたが、
そして最終的には前述のように人類に絶望。地球というものを守るために、隕石落としを図ります。
そんな彼は、究極的には群衆を信じないor信じることができない点に本質があると言えるでしょう。
人類は放っておけば大きな誤ちを犯してしまう。そしてその誤りが、地球を滅ぼしてしまうこともある。
ゆえに、そうならないためには誰かが粛清・教育・支配しなければならない。
ゆえに、そうならないためには誰かが粛清・教育・支配しなければならない。
しかし果たしてそれは、本当に全体のためなのか。
そのモチベーションはどこからくるのか?
善意とは何なのか。
「全体を救っている自分」に対して自己満足を感じる、冷ややかに見つめる観察者としての彼がいるのではないか。
一方のアムロ・レイは、人類の可能性をひたすら信じる。
シャアのような危機意識を全く持っていないわけではないのですが、改善のための具体的行動をすることはせず、革新的変化を避けます。
基本的に人類の可能性をただ信じる。
ただ信じるということは、「次の世代に賭ける」という父性を意味しており、
子どものシャアと父性を持つアムロの戦いであったという興味深いことになります。
(最近友人との会話で、攻める立場か守る立場かで、人生観はかなり変わるだろうという話をしたので、その話も思い出しつつ。)
シャアのような考え方は危険思想。
しかし一見これは過激な考え方であるようで、多くの人間が共通の考え方を持っているのでは?とも思うわけです。
例えば、現代社会を見てみる。
社会や制度に組み込まれている不正や理不尽さを変えようと、大なり小なり規模を問わずに活動している方々。
そんな彼らにとって、「待っていれば人間は変わる」という思想を信じることは、現状に納得するということを意味しています。
その点において、シャアに近い考え方は例外的ではないのは。
補足)
「全体の利益を優先するために過激な行動に取組むのは、結局のところ恋敵であるアムロとの決着をつけるという個人的な理由のためにすぎない。シャアは本質的に子どもなのだ」という説も大きいので、
シャアの本質についてはなかなか単純に語れないところもありますが。
最後に、「ガンダムUC」のシーンを紹介して終わりたいと思います。
(ミネバ・ザビが喫茶店のマスターと会話している)ミネバ「ずっと地球に住んでおられるのですか?」マスター「ああ、今更離れられんよ……
わし等の世代は、爺さん婆さんから昔の惨状を聞かされて育っとる。
そりゃあ酷いモンだったらしい……
それを何とかしたくて、人は連邦政府を作り、宇宙移民てヤツを始めた。
貧乏人だけが、無理矢理宇宙に捨てられたって言う奴等もいるが、
望んで出て行った連中も大勢いた。
地球の自然が元に戻るまで、もう帰らないと覚悟してな。
それも、一年戦争で殆ど元の木阿弥になっちまったが……」ミネバ「救われませんね……」マスター「まぁ、しょうがない。 全て善意から始まっている事だ」ミネバ「善意?」マスター「連邦も移民も、元は人類を救いたいって善意から始まってる。
会社を儲けさせたり、家族の暮らしを良くしたいと願うのと同じで」ミネバ「でもそれは、ともすればエゴと呼ぶべきものになります」マスター「そうかもしれんがね。
それを否定してしまったら、この世は闇だよ。
自分を殺して全体の為に働ける奴ってのもいるんだろうが、
それはそれで胡散臭い。 ネオジオンのシャアとかな……
全て人の為だと言いながら、隕石落としをやる。
本当は、人間を好きになった事が無い男だったんじゃないかな……」
後半はかなりまとまらないまま書き進めてしまいましたが、まあずっと貯めてたことを書けたのでおおむね満足してます。オチはなし。
さて、今日はこんなところで。