no pleasure, no life(旧ブログ名:まちづくり、例えばこんなふうに)

意固地になるほどに"まちづくり"が気になって仕方ない。自分の関わったまちづくりの活動・調査の記録を中心にしつつ、"都市""街の変化"の話題など。 Keyword→まちづくり/都市計画/荒川区町屋/蒲郡/豊橋/三河/谷中

人が自分以外のために動く理由って何なのよということを悶々と考えた

どこかで聞いた教科書みたいなことじゃなくて、自分のアタマで人生について考えてみる。

いや、これまで書いてきたことも、決して誰かの請け売りではないんですけども。

考えるためにものを書いているわけで。

 

突然ですが、人は幸せになるために生きるものでしょう。

それはもう、憲法の幸福追求権とかを持ち出すまでもなく自明。

(でもなんとなくこの言葉、エゴをかなり美しく尊んでいるイメージがあって人間臭くて好きなので、「幸福追求権!」とだけ強調しておきます。)

 

ここで、「幸せって何なの?」とかなんとか言い出したところで、途方もない無限ループを予感させますね。

なので、「幸せとは何ぞや?」論は避けて次に進みます。

 

この「幸せ」になる手段には、2つくらいタイプがあると思うのです。

それは、内向きか外向きか、という分け方。

 

内向きというのは、自分が自分のために何かをしていると楽しいということ。

つまりはテレビゲームしてると楽しいとか、買い物してると楽しいとか、友達と遊んでると楽しいとか、そのレベル。

自分の選んだ行為に対する自分の「楽しい」「幸せだ」という反応が、かなり近いということです。

「自分のために自分を幸せにする」ということ。

それっぽく言えば、幸せになるための行為の、直接的な客体が自分ということです。

 

 

一方の外向きというのは、自分が自分以外を幸せにすることで、自分が幸せになるということ。

 誰かに優しくしてその人が喜ぶ姿に対して、幸せを感じるということ。

 

こちらのタイプは、他人が喜ぶことが純粋に楽しいという生っ粋の聖人君子タイプと、

「他人を喜ばせている自分って素晴らしいなあ」というような、結局のところ自己肯定感向上のために他人を幸せにするというタイプの2つがあるでしょうか。

 

 

さて、わざわざこれらを分けた意味は何か。

 じゃあ、「社会をどうにかしたい」っていうモチベーションは、どこに湧くのか?ということ。

 

例えば社会活動家や大学教師が、「社会をよくするために」という言葉を使ったとする。

けれども彼らが、本心から「社会福祉の向上」=「幸せ」というように価値観が一致しているタイプの人間なのか、

自己犠牲を美徳とする大衆の価値観に乗っかっている人間なのか、

とりあえず誰かの考えた正解、ただ教科書的なお題目を唱えているだけの人なのか、

さっぱりわからないわけです。

 

こう考えてしまうのは、意識高く、何か自分以外の大きな流れを変えたいと願う人って、結局のところ何がモチベーションなのだろうと、

なかば猜疑心を持ってしまう天の邪鬼な今日この頃だからなのです。

 

単純に言えば、「顔も見たことのない不特定多数の幸せ」のために心から働ける人なんて、いるのかということ。

それであれば、例えば家族のためとか恋人のためとか、自分の名声のためだとか、そういったわかりやすい目的がある人のほうがむしろ信頼に足るんだろうなということ。

 

 

最近は感情の大きな動きがなく、いろんなことを頭と論理だけで考えることがクセになっていて、こんなわけのわからないことも書いてみました。

心の狭い印象しか与えなさそう。。。笑

 

 

そういえば、「故郷のため」って、めちゃめちゃ説得力ある動機ですわね。