no pleasure, no life(旧ブログ名:まちづくり、例えばこんなふうに)

意固地になるほどに"まちづくり"が気になって仕方ない。自分の関わったまちづくりの活動・調査の記録を中心にしつつ、"都市""街の変化"の話題など。 Keyword→まちづくり/都市計画/荒川区町屋/蒲郡/豊橋/三河/谷中

【報告】エコピープルになりました

先日、福祉住環境コーディネーターなるマイナー検定試験に通過したことをご報告しましたが。

実は同じ7月に、東京商工会議所が主催する他の検定試験も受験していました。

 

そして本日結果が届いていた↓

 

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「環境社会検定」、通称eco検定

福祉住環境コーディネーターは曲がりなりにも職業を限りなく想定した検定試験でしたが、こちらはもはや職能には全く関係のない趣味資格と言っても過言ではありません。。。

 

単なる報告にするのもつまらないので、環境問題とか環境保全とかについての自分の考えを少し。ちょい偏向的ですが。

 

 

エコや環境保全の概念は、中流以上の所得層にとっての“なんか高尚”な概念としては十分な普及を見たと思えますが、

真に持続可能な環境社会の実現のためになされるべき、一般の価値観レベルへの普及は全く進んでいるとは思えません。

環境配慮行動を行なうことができるのは“余力のある”人間で、普通の人は道にゴミを捨てるのは当たり前だし、エネルギーは好きなだけ使う。

 

でも、これだけ気候の具合に変化や異常の兆しが現れてきても、別に誰も自分の生きている時代に致命的な状態に陥るなどとは思わない。

まだ見ぬ世代のために自分達の消費行動を制限するなんてあまりに非合理的だし、知らない誰か高尚な人々が意識高く環境配慮行動をしていても知らずに利己的な生活をしていればいいわけです。

好きなだけ地球を食いつぶして、異常が起きる前に退室(=死亡)すればよいわけで。

 

よしんば環境配慮行動に取組んでも、それが目に見える果実として自分に跳ね返るわけではないから、“なんか満足した気分”になれないような人にとってはインセンティブが全くないことになる。

 

・・・本当かよ、と思います。

こんなフリーライダー志向ばかりの社会でよいものか、と思ってしまいます。

 

 

環境問題の話以外にも、こんな構造があまりに多い気がするのです。

社会の分業化によって、社会人はある特定の部品(銀行の融資、メーカーの開発などの立場)として何十年も生きていけばよいということが当たり前になると、身近な社会を自分達で支えているのだという意識が希薄になってしまうきらいがある。

 

自分の関わらなくてよいことについては、“誰かしかるべき役目の人が尻拭いをしてくれよ”となる。

不祥事を起こした人を、徹底的に糾弾する風潮もここに根があると感じます。

「万人の万人に対する闘争」ってこのことじゃないのか。

 

それが進むと“◯◯は何やってんだよ”という人があまりに増加して、他力本願・匿名社会の完成。

でかい口を叩けば、このあたりも含めて環境問題ではないかとも感じる。

 

 

「人にやさしい社会」とか、「自分たちのことはある程度自分たちで」というような、そんなのが温かくていいよなあ、なんて、わりと願う。