“根なし草”感と蒲郡と 其の壱
進学を機に上京した(最初は横浜だったが)のが18歳の時だったから、そろそろちょうど10年を迎えることになる。
この間(ずっとではないが)、自分の拠点のない宙ぶらりんな状態に気持ち悪さを感じてきた。
それもそのはずだ。
通学に便利な駅を選んだら、その中で住居スペック・周辺環境とコストのバランスを考慮して、借りる部屋を決める。
そもそも「部屋を“借り”ている」ということが、自分はその地域に根を張らず、いわば仮設状態であることを意味する。
そしていざ、新生活を始めても、大学のクラスやサークル、アルバイト先等が自分の(しかし時限的な)居場所となるので、自分が地域に結びついていないということは全く問題にならない。
しかし、ホテルに泊まっているような状態と、本質的に何も変わらない。
「◯◯区××町」に住んでいるということは、郵便物の届く住所という機能的な意味しか持たなかった。
むしろ住所よりは、△△線□□駅に住んでいるという情報のほうが意味を持っていた気がする。
大学から近い駅であれば溜まり場になるし、ちょっとした乗り換え駅であれば「へえ、いいとこ住んでるね」という軽薄なステータスになっていた感はある。
少し飛躍になるかもしれないが、この状態は、政治や社会問題といったテーマについて、自分をそういう概念から離れた観察者として捉える態度に結びついていると思う。
自分も大学で何かを学び、社会に出た。
当然、学んだことを活かして、社会に対して何らかの価値を提供していこうと思うようになる。
そんな時に、自分が心から良くしていきたい・変えていきたいと感じる対象がそこに存在しないということに気づいてしまった。
さらに、これまで自分があまりに社会から自由すぎる立場であったかに気づいた。
大学という閉じられた空間での学びは、やはり教科書的なパラダイムを学ぶということで、もちろん疑問を持ち、考えながらも、基本的には型通りのことを吸収したように思う。
特定の拠点を前提とない学びを、身に付けてきたわけだ。
しかし、それを社会のどこに役立てるのか?自分は世界や日本や社会一般というものを良くしていくことに本当に生きがいを感じることができるのか?ということが非常に不安になってきたのである。
ここまで仮設状態で暮らしてきた東京という町は、あくまで自分にとって仮設状態を過ごす環境でしかなく、そこに暮らしている人間全てにあまねく幸せになってもらおうという気持ちを、本心から持つことができていないことに気づいたわけだ。
「住んでいる人の意見が反映された良い街を作る」という価値観自体は誇り高いものであり、この総論には私は心から賛成する立場である。
しかし、その価値観を、自分が無意識に仮設状態と規定してしまったこの街で実現するのか?したいと思っているのか?
全く知らない土地・人々に対して、身を粉にして、滅私奉公的に、その価値観を心から振りかざすことに人生を賭けることができるのか?
特にどこにも拠点がなく、目標や実現したい価値観も見出せない状態。
とりあえずこの状態を「根無し草感」と呼びたいと思う。
(たぶん次回へ続く)