no pleasure, no life(旧ブログ名:まちづくり、例えばこんなふうに)

意固地になるほどに"まちづくり"が気になって仕方ない。自分の関わったまちづくりの活動・調査の記録を中心にしつつ、"都市""街の変化"の話題など。 Keyword→まちづくり/都市計画/荒川区町屋/蒲郡/豊橋/三河/谷中

連休中に考えた人生観とか、自分の価値観に変動を起こさねばという危機感とか

このところ、自分の人生とか幸せということに関して物思いに耽ることが多くなりました。

自分の人生はどこに向かっているのだろう?向かっていたいのだろう?とか、
幸せになれるのだろうか?どうなれば自分は幸せと感じるのだろうか?とか、そういった漠然としたこと。
 
思えばここまでの生き方、人生に深みを与える意味での「寄り道」をしてこなかったように感じるのです。
 
少し思いあがった表現を。
 
物心ついた頃から成績は下の方ではなかったし、当時はコミュニケーションの上でも困ることはありませんでした。
「社会に何か貢献できるような生き方をしたい」とまでははっきりと認識してなかったでしょうが、「仕事以外の余暇を充実させて生きられれば幸せかな」という思いとは対極にいたように思います。
 
何を間違ってか、東京大学進学という事件を経て、そんな思いが強まりました。
過去にも、ノブレス・オブリージュの言葉を用いてそんな記事を書いていますが、
要するに「自分は少し秀でている立場として、自分以外を幸せになるような仕事をするべきなのだ」という思いが、いかにも教科書的に、お行儀よく生まれてきたのです。
 
ここで、”お行儀よく”と表現をしたのは、それが自分の心からの切望という形ではなく、
こういう立場だからこういう役割を演じるべきなのだというような、役割を求めるような形で発生してきた思いだからです。
 
特に「都市計画・まちづくり」に惚れ込んだ時期からのインプット(”インプット”だけなのがポイント)は我ながらすさまじかった。
 
けど、その先がないのです。
社会とか国とか、そこまで大きくなくてもよいけど、自分以外の何かをどうこうするための人生にしたい、とかそういうものがない。
都市計画・まちづくりという立場にもどこか意固地になっているところがあるけど、それを捨て去ることはできない。
 
と思った時、こんなツイートに出会ったのです。
 

 

まさに今の自分がこの通りで、危機感を持っている。
 
ここからは本当に、自分の価値基準を確立しなければという勝負だと思うのです。
自分を痛めつけながら方向修正せねば、と切実に思う。
 
例えばいろいろな物事を、自分なりの言葉で評価していくことが必要なのではないか。
その積み重ねがおそらく、そうなるのでは。
 
思えば長く、勉強できるような場には進んで足を向けてきた一方で、
自分の価値観を否定しそうな人・場に対しては足が遠のいていた自分に気付きます。
 
出来事の社会性・非社会性を問わず、自分の言葉で品評するトレーニングと、
価値観を揺さぶられるような場へ赴く行動力、
そして様々なものに対する違和感を持ち続けていたいなと、
そんな結論に今は至りました。
 
まとまって物思いに耽られる、よい連休でした。