"ヒモ道"が少しわかってきた気がする 鋤柄拓也一人芝居『ヒモのはなし』@絵空箱、12月11日
先日のエントリで告知させていただいた、友人の一人芝居にお邪魔してきました。
年末の彼の一人芝居はもう三回目で、これから彼がどれだけビッグになろうとも続けてほしいなと勝手に思います。
演目は、故つかこうへい氏の脚本である『ヒモのはなし』。
こちらも3年変わらず、こだわりの一作なのでしょう。
写真:会場である絵空箱。
演目名に、既に挑発的な意図が見えそうです。
つか作品の多くを知っているわけではありませんが、その特徴は、『熱海殺人事件』の殺人犯や『ストリッパー物語』におけるストリッパーなどのような、どちらかと言えば社会で日の当たらない存在を取り上げることで、その生々しい苦悩をリアルに描きます。
その苦悩の内容はリアルでありながらも、おそらく観客の共感を期待しての語られることはあまりなく、その激しい殺陣も相俟って暴力的に叩き込まれるような印象を持っています。
例えば今回のモノローグの主体であるヒモのシゲは、自分の女であるストリッパーにいかに甲斐性なしと思わせるか、いかにカタギの人間から見下されるかといった"かくあるべきヒモ道"にこだわり、それに胸を張って生きているという。
少し内容に触れましたが、この一人芝居の語り手は、ストリッパー・アケミのヒモとして生きるシゲという男。
アケミへの愛と献身の表現を、一見惨めとも思えるやり方でしか行う術を知りません。
例えば、一仕事終えて帰ってきたアケミが自分を殴りやすいように、いかに卑屈な顔をしているか。
甲斐性のない男と思ってもらうために、いかに普段ダラけているか。
踊りの後にアケミを借りたいという客に対して、いかにアケミを立てながら快く応じるか。
書き出せばキリがありませんが、そんな行為に強い信念と愛情を持って取り組んでいるかを、持ち前の明るさとヘラヘラで語っていきます。
最後はやはりアケミへの不器用な愛を叫ぶことで終わるわけですが、もちろんそこに一般的なハッピーエンドがあるわけではありません。
これはあくまで、スポットの本来当たらない存在に敢えて焦点を当てたモノローグなのです。
そんなストーリーを、私は好きで3年連続で観ているわけですが、彼の演技が毎年変わっていることに驚かされます。
特に今年はシゲ持ち前のヘラヘラの表現がズバ抜けていて、それが余計にシゲの惨めさを際立たせる結果になっていた気がします。
あと、常に全力演技で、舞台序盤から発汗がすごかった。
贔屓目なしで、彼はそのビジュアルはもちろん、演技の技術もかなりのレベルでした。
今後の活躍を大いに期待しつつ、やはりこちらも頑張らねば、こうしちゃおれんと思わせてくれる時間でした。
(終演直後の絵空箱)