【雑談】帰省中に発動する自己防衛的マウンティング
今回の年末年始は地元でゆっくりしていました。
父母それぞれの在住地がスプリットしているせいで、やや移動時間に割合を割くということはありましたが。
それでも、友達と会って遊んだり飲んだり、親族の集まる場に顔を出したりと、一通りの自分的恒例行事は済ませられたかなと思います。
横浜に戻るバスの中でヒマなので、そんな帰省生活中に感じた自己防衛について書いてみる。
果たして特殊な感覚なのか、はたまたあるあるなのか。。。?
"夢だった"感
帰省して親元に帰ると、"頑張らなくてよい"スイッチが入りますよね。
普段職場などで緊張感持って接する顧客や同僚が、生活から全く消える。
さらに(場合にもよりますが)炊事をはじめとした家事労働からも、一時的に解放される。
単身生活では全て自分で決めて行動することが当たり前で、ある意味オンもオフも"頑張っていた"と言えます。
肩肘張ってた、とも言うのでしょうかね。
それが、ほとんど一切なくなる。
その感覚が、まるで別の世界に来てしまったかのような感じなのです。
横浜に住んで都内に勤務して、休日も荒川区絡みで意識高めに活動してた毎日が、"まるで夢だった"のではないかと。
実際は空間的に連続な世界で、ただ"帰宅しただけ"なのですが、緩む方向の変化が著しいからこそ、そんな感覚を持ってしまうのです。
でもステータスとしての"頑張ってるワタシ"はこびりついてる
それでも実際は夢なんかではないわけで、"東大院卒→地方公務員経由→まちづくりコンサルタント"という偏ったステータスに拘っている自分は明らかにいるわけです。
だから地元にとどまっている昔からの友人達と飲んでる時に話す内容や、親族の集まった場で話される内容についても、そのステータス・視点で解釈してしまう。
例を挙げると角が立ちそうなので述べませんが、つまりはなんだか下に見てしまうのです。
うん、とても性格悪い。
が、条件反射的な適応機制(防衛機制)でもあると感じているので、敢えてもう少し考えてみます。
防衛機制(ぼうえいきせい、英: defence mechanism)とは、精神分析で用いられる用語であり、欲求不満などによって社会に適応が出来ない状態に陥った時に行われる自我の再適応メカニズムを指す。広義においては、自我と超自我が本能的衝動をコントロールする全ての操作を指す。
(wikipediaより)
そこには、人より苦労して頑張ってきた自分すごいな、という可哀想な自尊心があります。
実際は肩書きは記号に過ぎないのですが、人生のあるフェーズ(大学受験)までは、その記号を手に入れることで人間の価値が決まるのだというくらいに盲目的に考えていたわけです。
もちろん今では、本当の意味で生き方や輝き方が多様であることを、頭では理解しています。
それでも、前述した盲目的価値観に基づいた選択行動に、人生の多くを注いできた過去の自分に同情して、心の上ではこの多様性を理解できていないのです。
それは、マウンティングという言葉に近いような気がします。
悲しい消極的マウンティング
マウンティングとは。
マウンティングとは、本来、動物が自分の優位性を表すために相手に対して馬乗りになる様子をいいますが、人間関係においては、「自分の方が優位」と思いたいがゆえに、「私の方が他人よりも幸せである」と一方的に格付けし、自分の方が立場は上であると主張し、更にそれをアピールするのがマウンティング女子です。
(@typeより)
ここで表されているマウンティングと今回の事情がやや異なるのが、具体的な言動には出ないということです。
前述したように、あくまで他人の言動を解釈する際の、防衛機制としての消極的マウンティング。
だから、コミュニケーションの相手に対して、実際に卑下する言動をとらないのです。
自分の発言の節々に現れている可能性は否定できませんが、意識としては本当にありません。
なぜ最近強まってきたのか?
この感覚、もちろん今に始まったことではありません。
20歳近くで地元を離れてから、年に数えるほどしか故郷に帰らなくなって10年は経っています。
最初からそんな感覚はあった。
しかし、やや強まってきた気はするのです。
その原因は明らかで、"生き遅れている"感です。
私の故郷をはじめとして地方では、ライフステージの変化が早まる傾向があると感じます。
要は、就職→結婚→出産を迎えた同学年が多数を占めてきたわけです。
中では終の住処としてのマイホームを建てている同学も珍しくなくなってきました。
また、地方ではそんな傾向もあいまってか、そんな価値観こそ是とされるような被害妄想があります。
結婚至上主義の価値観はやや弱まってきているのか、親族にもはっきりと"まだ結婚しないの?"と言われることはありませんでした。
でも現実に、ライフステージを順調に登っている人間が多数派になった空間にどっぷり浸かると、無言の圧力や生き遅れ感を、必要以上に感じてしまっています。
そんなプレッシャーを受けても、"はいそうですか"と価値観を同調させるということはありません。
そこは先のステータス意識が、頑ななほどに胡座をかいて価値観の同調を阻んでおり、自分を肯定するために消極的マウンティングに走るのです。
「忘れたのか?オマエは彼らとは生き方が違うのだ」と。
むすびに
わりかし恐る恐る書いてみました。
どうなのかなー、自分だけなのかな?
書き忘れてましたが、今回書いたような"呪い"にまだ振り回されてるのは、きっと自分がまだ途上段階にいると思っているからだと考えています。
自分が納得できる一定の状態、それは記号としてのステータスなのか成果をあげた状態なのか不明ですが、そこに至ろうとしている途上だということ。
ならば頑張るしかないでしょう。
と、いうことで。
それが言いたかったわけで、元旦所信表明の延長でした。