きっと誰でもいつでも"地の人"になれるんだろうという話。
一般社団法人マツリズムの代表である大原さんの、少し前の記事から感じたことを。
よく地域とかコミュニティを考えるときに、「既存住民」と「新規住民」とか、「地域の担い手」と「地域の傍観者」だとかいう二分法を用いることがあります。
これによって要らぬ対立構造を生むリスクがあるという反面、まあ実際そうだよなと共感され得るところもあり、結局のところ説明しやすいからこの言葉を使うというのが正直なところです。
で、その前者である「既存住民」とか「地域の担い手」というのは、つまりは誰のことなのかという話。
そこに仲間入りするためのパスポートだとか通過儀礼が、果たして必要なのでしょうか。
大原さんのブログではそれを言い換えて、”地の人”としています。
様々なアイデアが出た中で、地元の祭りの方から興味深い話があった。
「実は根っからの『地の人』なんて多くない。祭りの担い手の多くが地方出身だけどたまたまそこに住み着いた人たちなんですよ。」
(上記記事より。太線部筆者)
特にお祭りを考えるときに意識することが多いのだと思いますが、町内会とかお祭りに携わられている方々は、"地の人"。
この"地の人"というレッテル貼りをしてしまうせいで、ただ仕事や通学の都合で機械的にその地域を選んだだけの人は、まるで"地の人"と切り離された、違うタイプの人みたくなってしまう。
でも、こんなのはおそらく相対的な概念でしかないのですね。
新たにその地域・街に住むようになった人に比べて、少しだけ長く住んでいる。
そしてさらに、たまたまその地域・街を居場所とみなすことができて、自分の住まいの中だけでなくて周りを見始めたのが"地の人"だと思うのです。
この、"居場所とみなす"というのが肝でありながら難しいところで、家賃と交通利便性のバランスだけで転居を繰り返している場合は、もしかしたら子育てを始めても居場所を見つけられないかもしれない。
子供が小学校に入り始めて”そろそろ根を張ろうかな”と思った場所が居場所になるのかもしれないし、そんなものなのかもしれない。
ここで大事なのは、"地の人"にはいつでもなれるということなのだと思います。
地域との関わりを始めるきっかけに子育てを挙げる人は多数ですが、なんだかそれは結果論的でかっこよくはない。と感じる。
別に地域と関わるきっかけを受動的に待たなくたっていい。
なしくずし的ななり方もあろうけど、積極的に"地の人"になる選択肢だって絶対にある。
そして私は、その中でも異端児的に、住む前から居場所にしようとする試みを進めているわけだ。なんだそれ。