そろそろ町屋で輪を広げたいです - 「町屋銀座まちづくり 第1回」
昨年11月のエントリで静かに紹介させてもらった、『コリンcafe』さんというお店があります。
※ちなみにこのエントリで紹介させていただいたもう1店舗「n.r store」さんは、荒川区のお友達戸田江美さんによってキュレーションサイト『箱庭』の記事になりました!
なぜか当ブログでも「n.r store」さんの記事がいちばんPV数高いんですよねー。
さて、『コリンcafe』に戻って。
実はあれからすでに、3回ほどお邪魔しておりまして。
景観まちづくり塾の打ち上げで貸切利用する相談をさせていただいていたり、
お知り合いの不動産屋さんを紹介してもらう話を進めていたり、
同級生のパン工場を案内してくださったりと、
普通のヨソ者にしては仲良くさせていただいているわけです。
いやいやお世話になりすぎだろ。。。
ひっそりと、facebookページもあります。
facebookより コリンcafé - 基本データ | Facebook
都電の街・町屋で、築80年の家屋をリノベーションして2016年秋にオープンした小さな隠れ家的カフェ。フレンチモロッカンを意識したエキゾチックな内装インテリアとは裏腹な、あたたかい下町人情あふれるオーナー家族やお客様たちの雰囲気がミスマッチの癒しの異空間(自称)。まだ小さく営業中のためメニューは少なく、特製スパイスカレーとレアチーズケーキ、コナブレンドコーヒーがメインです。ほかにリクエストあればなるべくなんでもお作りします。昼からワイン&チーズのセットもご用意しています。ランチ500円~。夜は完全予約制(紹介のみ)3000円~。
(上記facebookページより)
このイントロダクションは、まさにお店の日常をそのまま描写している感じがします。
かわいい外観とおしゃれな内観に似使わず(?)、地域の年配の方々がふらりと立ち寄って井戸端会議をする場所。
最近はコップ酒飲んで楽しんで行かれるおじいちゃんも増え始めたんだとか。
かと思えば閉鎖的というわけでも全然なく、私のようなヨソ者はじめ、地域に入門しようとする方を優しく受け入れてくれる。
これもひとえに、開店前から地域に根付いていた店主の方の人柄や懐の大きさなんでしょう。
お店に行けば必ず地元の誰かがいて、店主の方と楽しそうにお話をされてる。
そんなお店でついこないだ、こんなやりとりを。
私『お昼の貸切なんてできます?地域にお住まいの方々を中心に読書会なんてやってみたいなと思いまして。』
コリンcafeさん「できますよ。その時は少しレイアウト変えましょうか。」
。。。はい、決まり!
というわけで近日中に仕掛けますよ。
読者会に限らず、荒川六丁目のパン工場見学とかまちあるきとか、ヴァナキュラーなご近所さん企画を、コリンcafeさんを拠点に打っていきます。
荒川町屋エリアにお住まいでご近所指向な方は、チェックしておいてくださいな。
公務員三回生中退の身から見た、「なぜ行政のフットワークは重いか?第4回 いかに役所と付き合うか(試論)①」
さて、完全に自己満ながら、第4回を書いてみます。
これまでの記事はこちら。
ここまで、役所の共通の文化や価値観を紹介してきました。
- 文書主義
- 決裁主義
- 計画行政
- 議会答弁
- 広聴回答
今回はその総括的に、役所とのより良い付き合い方について考えてみたいと思います。
なお、タイトルにもありますように、私は公務員三回生で中退した身。正確には2年と4ヶ月。
それゆえ経験事例は少ない上、異動ももちろんなかったために、行政の価値観にどっぷり浸かったとは言えないかもしれません。
ですからそのあたりの事情を念頭に、ここまでの記事を読んでいただければと思います。
でも、まるっきりホラではないんじゃないかなー。。(自信なさげ)
システムは人を変えるが、人間性までは変えない
これまで連載してきた内容から、役所に対してどのようなイメージを持ったでしょうか。
「役人とはかくも冷たいのか。。」
「自分や自分たちのことしか考えておらず、住民を見ていないなんて奴ら」
と感じてしまった皆様、ちょっとお待ちください。(やや煽った自覚はありますが)
これこそが、公平性・平等性の担保を追求した結果辿り着いた、官僚機構という仕組みなのです。
文書主義や計画行政といった行政組織共通の価値観は、営利追求を求める民間企業では担い得ない、公共という領域を担うためにやむをえないもの。
近年の"新しい公共"という潮流は、従来の官僚機構だけが公共を担う主体ではないことを声高に叫んでいますが、それでもまだまだ彼らの存在意義は少しも霞みません。
むしろ、その潮流に併せて、"私"領域からでも行政組織を使い倒すこと重要性が増しているという側面もあるでしよう。(言ってて混乱してきた
まず言いたいことは、職員の人格自体が冷たいというわけではない、ということ。
むしろ逆で、就職先として役所を選択する方の多くは、行政でしかできない仕事をするため、公共という立場に魅力を感じている人が多いはずです。
そんな方々は、多くの人々のために。。という熱い気持ちを抱きながら官僚機構に入門していきます。
(もちろん、初めから安定性を求めて公務員となる人がいないとは言いませんが)
しかしながら、環境は人間を変えます。
文書主義や計画行政、決裁主義や議会答弁、広聴といった特有の仕組みは、そんな熱い方々の想いを悪戯に揺さぶり、尖った角は丸くさせ、いつしか"仕事のための仕事"という価値観を持たされるようになってしまう。
3、4年周期の終わりなき異動は、望むポジションでやりたい仕事などできないのだという諦めに。
そんな彼らは、本心と実情との乖離に対して、「異動すると転職するレベルで業務が変わるから、転職する必要ないんですよね」という思考停止により、バリアーを張ります。
無機質な広聴対応に対して当初は抱くであろう違和感も、そのうち消えます。
「ゼロ回答で申し訳ないけど、平等性のためには仕方ないよな」
→「あー、他の仕事もあるのに回答するの面倒だな」
→「カタカタ...」(機械的事務処理)
住民のため、と仕事の質をいくら追求しても、自分の高尚な価値観が満たされる以外、誰に評価されることもありません。
いつしか"ノー残業"と"監査での指摘を防ぐ"ための無難な姿勢に変容します。
そこに、守られすぎているとも言える総合的な福利厚生もあいまって。。。
あとは我々のよく知る、イメージ通りの"お役人さん"の出来上がりです。
願望的・役人性善説
ここまで紹介したようなお役人さんの性質は、あくまでシステムが作り上げたものです。
つまり、当の本人が、心の芯から、価値観の底から、そうなっているわけではないのだということ。
見えにくくなってはいると思いますが。
何が言いたいのかと言えば、たとえ「これだから役所は!」と感じたとしても、職員の人格否定をすべきではないということ。
彼ら彼女らが入庁時に抱いてたであろう公共心は、きっと変わらず持ったままなのに、役所の制度がその発現を縛ってしまっているだけなのです。
当人にとっても見えなくさせてしまっている。
だって、そもそも採用面接ではモチベーションこそ問われている(ですよね?)はずなんです。
その自治体のために働く理由について明確な説明ができ、なおかつ意欲のある者。
逆に言えば、新しく職員になろうとしている人間を選考する際に、「安定で事勿れな、役所向きの性格です」という者を採用しますか?
役所でただ事務処理的な執務をする上では、そのほうが生きやすいのは事実。
もちろん選考する側はそれを痛いほど知っているはず。
青臭い価値観では、行政組織の中を渡り歩く上で、精神衛生上難しいことを知っているはずなのです。
逆説的ですが、多くの民間企業がそうであるように、役所も採用選考では意欲・モチベーション面における適性を問うはずなのです。
それが明らかにハリボテであれば落ちるのであろうし、面接官に伝わる程度であれば通過する可能性は高くなる。
ゆえに、入庁時の行政職員の価値観は、「行政でしかできない仕事」「公共でしか取り組めない領域」といった、公共心にこそあるのではないかと思うのです。
そんな公共心を、呼び起こすような付き合い方があるのではないか。
相手や、相手を縛るルールを知る
では、一体どうすればよいか。
まずは、ここまで紹介してきたような行政の性質を理解することです。
文書主義。
法律をはじめとして、明文化されたルールを厳守すること。
提案したい内容が法に抵触する可能性があるならば、まず間違いなく受け入れられません。
決裁主義。
行政が物事を決定には、驚くほど時間がかかります。
たとえその場にいるヒラ職員に何かを主張し、受け入れられなかったとしましょう。当たり前です。
彼らは組織としてYESを勝手に言ってはならないのです。
計画主義。
役所が各種計画を策定したとすれば、それは絶対です。
たとえ数値目標がずれてきたとしても、彼らは黒を白にする腕力があります。
計画こそが、役所が事業を行う上で依拠する最大限の根拠かつ指標なのです。
公平性・平等性という呪いも忘れてはいけません。
ある限られた範囲にしか恩恵をもたらさない事業について、役所は尻込みします。
全体から集めた税金を、限定的に使うという理由を説明する理由があるからです。
例えば、商店街だけが潤ってはダメです。商店街が潤うことを通じて、日常的に利用者の利便性が上がって生活レベルが向上する、ということまで言わなくてはなりません。
とある地区だけが活性化するだけではダメです。その地区には集積の利があって、公共投資によるリターンが大きいということを言わなくてはなりません。
無謬性主義ということもあるでしょう。
彼らは決して、間違えることはありません。建前の上では。
ですから失敗を認めて、修正していくということはありません。
ー
ここで挙げたのはおそらくどこの自治体でも共通ですが、そのほか自治体ごとのマイナーチェンジがあるものと思います。
とにかく、相手をまず知ることが大事だと思うのです。
知っていけばその上で、どう付き合えるのかを考えることができるはず。
我々に限界があるように、彼ら行政組織にとっても限界があって当然。
でも我々は、役所とは"何でも屋さん"だという誤解をしがちではないでしょうか。
私人同士でもそうであるように、誤解があれば彼らとうまく付き合うことはできません。
。。。
いろいろ妄想をもとに書き進めていますが、言われてみれば難しいことかもしれませんね。
今日はこの辺で。
次回で間違いなく終われそうです。
生みの苦しみ(まだあんまり中身はない
まちを面白くしてやろう。
そんな思いで、とあるプロジェクトを始めようと画策しています。
ちょっと多いですが、関連する流れはこのあたりから。
それで本日、キックオフ的なミーティングをしてきたわけです。
もともとまちづくり塾でグループワークしてきた方々に加え、奇妙な経緯で知り合った新しい方を迎えて。
なんだろう、不思議な苦しい感じ。
行政が敷いたレールに沿ったまちづくりを支援する立場と、自らがレールのないまちづくりを進めていくのと、ぜんぜん違う。
道筋も、そもそもどうやったら進むのかもわからない。
ゼロから何かを始めようとするのってこんな感じなのか。
。。。乞うご期待(中身ない
公務員三回生中退の身から見た、「なぜ行政のフットワークは重いか?第3回 広聴というお客様の声」
書き出すと内容が増えてしまい、第3回目になってしまいました。
前回までで述べてきたのは、どちらかと言えば行政組織の閉鎖性でした。
しかし、行政の存在意義は、民間事業者では担うことが困難な"公共"という領域を担うことであり、それは開かれているものでなければなりません。
公共とは単に不特定多数というわけでなく、そこには明確にお客様がいます。
行政にとってのお客様は、その自治範囲に在勤・在住・在学するすべての人。
公共というお客様をターゲットにした仕事である以上、事業者がそうであるように、"お客様の声"を無視することはできません。
そのために存在しているのが、"広聴=広く聴く"という仕組みなのです。
しかし、これまで紹介したような行政組織の体質は、広聴という声に対して、やはり不思議な対応をしてしまいます。
「なぜ有益な意見が、役所に聞き入れられないのか?」
「どうしていつも冷たい対応ばかりなのか?」
その背景にある役所独特のメカニズムを、紹介したいと思います。
広聴とは
広聴とは何でしょう。
おそらくは、 多くの人にとって聞き慣れない言葉かもしれません。
音は一緒ですが字の異なる、"公聴"という言葉はどうでしょう。
こちらは、"公聴会"という言葉にあるように、計画や条例といった特定の事案について、決定する前に利害関係者の意見を聞く場を指します。
「こんなこと決めようと思ってますが、ご意見あればお寄せください」ということ。
一方で広聴は、事案を特定しないことが特徴です。
住民が行政に対して意見を届けられるチャンネルは、常に開かれているのです。
広聴のチャンネルは多い
では、住民はどのように役所に声を届けることができるのか。
これには、クラシックなものから現代的なものまで、様々なチャンネルがあります。
①インターネット
現在の主流は、インターネットを利用したものです。
多くの自治体で導入されていると考えられますが、そうでないところもあるよう。(蒲郡市はなさそう)
インターネットを通じた投書はコストがかからなく気軽な上に、きわめて匿名性が高いため、住民にとって利用するハードルがとても小さいと言えます。
簡単なフォームが作成されていて、必要事項を入力するだけでよいのです。
横浜市の事例を示すと、こんなイメージです。
横浜市HPより
トップページに、このフォームに飛べるボタンがあります。
横浜市HPより
荒川区HPより
②電話・窓口
ややクラシックな手法ですが、現在でも根強く利用されます。
意見を言いたい事業の所管課に直接電話をかけるのはもちろん、そうでない場合も、代表して振り分ける交通整理専門の部門がある自治体もあります。
例えば、横浜市コールセンターはその代表例ですね。
電話の場合の特徴が一つあります。
窓口にも共通してリアルタイムなやりとりのため、即時的な応答が求められます。
正確な相手に電話をかけており、かつ質問や意見の内容が軽微なものであれば、その場で解決・回答を得られることもあるでしょう。
しかし多くの場合はそうではなく、最初の電話では聞き置くのみとし、回答が必要な場合は課内検討→決裁の後に折り返すということになります。
インターネットではなく電話を使うような方は、直接伝えたいという想いが強い傾向があるため、電話の内容も白熱します。
それゆえに、対応も容易ではないのです。
さて、窓口。
電話であれば、一旦切って出直すということができますが、窓口はそうはいきません。
そして、インターネットでも電話でもなく、窓口まで足を運ぶような住民の方は、直接伝えたいという想い以上に、ボルテージも上がり切ってしまっていることが多いです。
その場合はバトルになりかねません。
また、少し面白い現象ですが、毎日のように通ってクレームを伝える方もいます。
このレベルになると、もはや職員と仲良くなってしまうケースも。
(もちろん、通常の要件で窓口訪問する方もいます)
③その他
手紙なんてのもあります。
達筆な文面に、つい姿勢をただしてしまうことも。
つまりは
つまりは、住民にとって役所に意見を伝える手段は豊富ということです。
では行政組織は、そんなふうにして届いたたくさんの声に、耳を傾けているのでしょうか?
役所は回答に決裁が必要
寄せられた声に対して、役所はどのように回答をするのか。
単純に言えば、こう答えます、という回答案を決裁するわけです。
担当者が起案して、係長→課長が承認することで、ようやく実際に回答することのできる文章が出来上がります。
それだけでは議会答弁の作成と変わりませんが、そうではありません。
明確に違う特徴が、二つあるのです。
特徴その一、ゼロ回答
一つ目は、基本的にゼロ回答だということ。
役所にとって広聴とは業務です。
多くの場合、通常業務と並行して、自分の課に到達した広聴に対応することになります。
定時退庁というプレッシャーが強い役所は、不測の業務の発生を著しく嫌う傾向にあります。残業代はありますけどね。
ゆえに、あらかじめ計画的な対策のできない、発生次第対応せざるをえない広聴という案件は、それだけで厄介なのです。
そしてよしんば、そんな厄介な、回答しなければならない広聴案件が来てしまったとします。
その場合に、どのように回答文案を作成するか。
- 過去の回答履歴を検索し、使えそうな文章をコピペして起案する
- 以前の回答と同じだということを念入りに説明して、優先的に決裁をもらう(行政は広聴到達から返信までの期限を設けています)
- 上司の作文チェックを受けた後、返信(この間、何度も手戻りあり)
もちろんコピペとは言え、案件に応じたクッション言葉の違い程度の変化はあるでしょう。
事業フェーズによって、"優先順位も見ながら検討を進めてまいります"だった表現が、"実施に向けて準備を進めております"に変わることもあります。
とはいえ、あくまで質問に対する回答なのです。
回答の正確さについては入念なチェックが入るので、まず間違いないでしょう。
でも、0から1が生まれることはないんだ。
どういうことか。
何の計画もない時点で、「こんな有益な事業はどうしてやらないのか?」→『やりましょう!』ということは、皆無なのです。
広聴レベルのチャンネルに、ぽっと出の提案があったとしても、そこから行政が重い腰を上げるということは、まず、ない。
特徴その二、連携は進まない
二つ目の特徴は、広聴をきっかけに行政組織に横串は刺せないということ。
議会答弁台本の作成では、期間が限られていることもあり、議員とのやりとり、質疑応答を作成するために複数の部門が連携して文章を作成します。
議会という大義名分で、一応は一時的な連携が進むのです。
でも、一般的な広聴ではそれはない。
ただ、受け取った担当課が、いかに大事にしないかを考え、危なげない回答案を前例踏襲で作るのみ。
まとめ
官僚機構におけるお客様の声の扱い方が、このようになってしまうのもうなずけます。
構造的に、そうなっているのだから。
こうした事態に対して、松戸市のすぐやる課のような取り組みはあります。
理念ある首長によるトップダウンでしか、この仕組みを構造的に変えることはできないのでしょう。
でも、そんなものは待っていられない。
嘆いてもいられない。
では、役所とどうやって付き合っていけばいいのか?
次回はそのあたりのことを書いてみたいと思います。
公務員三回生中退の身から見た、「なぜ行政のフットワークは重いか?第2回 決裁主義と議会答弁」
さて、間があまり空かないうちに第2回を書いてみます。
今日は、行政事務を貫く価値観である"決裁主義"について。
第2回
決裁主義とは
役所では、意思決定をすることを決裁と言います。
用例では、「あの件、課長の決裁おりた?」とか、
「まだ決裁前なので正式にはお話できませんが。。」
といったもの。
奇妙な話なのですが、本来的には地方行政とはあくまで"首長"によって担われることになっています。
ですがもちろん、多岐に渡る行政事務を、個人としての市長一人で処理するということは非現実的なので、市役所や区役所という組織が存在し、そこで職員を雇うわけです。
こうした行政職員を補助機関といいます。
それに対して、首長や各種委員会(選挙管理委員会、教育委員会など)は執行機関と呼ばれます。
総務省資料より
まあこうした分類はどうでもよいのですが、大切なのは、職員はあくまで脇役であり、ほとんどの対外的な仕事は首長名義で行うということです。
建前的には首長であるとしても、実務的には事務を処理するのは職員。
そして、職員が事務処理する上では、意思決定が当然求められます。
たとえ、いちヒラ職員の言動であったとしても、あくまでその自治体(=首長)の意思として重みを持ちます。
この、重みを持たせる儀式こそが決裁なのです。
決裁とは、"それが自治体を代表した意思である"という、オーソライズの手続きなわけですね。
こちらが、決裁という仕組みのために用いる起案用紙の例になります。
ここで、"起案者"とあるのが担当レベルの職員だと思ってください。
起案者とはつまり、発案者。
起案者をスタートに、担当職員→係長→課長→関係課(職員→係長→課長)という順に文書が回議され、それぞれがハンコを押していきます。(実際は電子的なシステムも導入されています)
最後にハンコを押すのが決裁権者で、案件によって課長や部長、大きなものでは市長であったりします。
決裁権のある職員の職位によって、課長専決案件、市長専決案件とか呼ばれます。
そしてこの意思決定メカニズムは、対外的な文書に限られません。
例えば細かな部分では、職員個人の有休取得にも同様に決裁が行われますし、庁内照会にあたって、「本案にてXX課に報告します」という場合にも決裁が行われます。
それほど、決裁主義とは行政組織に染み付いた価値観なのです。
決裁主義の影響
この決裁主義が、いかに行政組織のフットワークの重さと結びついてくるかは、容易に想像できることかと思います。
本来的には単独では意思決定できない担当レベルや係長級の職員が、実質の作業を担うということ。
前回の文書主義ともあいまって、それはヘタなことを勝手に、かつ単独にはできないということにつながります。
構造的に、制限された裁量の中で仕事をするという仕組みになっているのです。
「役所はいつも、奥歯にものが挟まったような回答しかしてくれない。。」
という不満をお持ちになったことがあるとすれば、こうした事情が大いに影響していることでしょう。
彼らにとって、独断でヘタな回答をするのは危険だとまで考えているからです。
したがって、例えば説明会の場で思わぬ質問をされた時などは、巧妙に論点をずらすなどして、踏み込んだ回答を避けるのです。
対策として、彼らは念入りな想定問答集を作って説明会などにのぞむこともあります。
口篭ったり、無責任に曖昧な回答をすることで住民を戸惑わせないように対策していくわけですが、他の課の業務に関することについてはやはり口が重くなってしまいます。
柔軟な庁内連携の難しさが、ここにもあるとあうわけです。
そして、次から述べる議会答弁や、次回ご説明する広聴という分野でも、この決裁主義が大きく影響することになります。
議会答弁
自治体は、議会を持っています。
国における国会とはやや性格は異なりますが、直接選挙によって選ばれた地域代表が執行機関を監視する基本的な仕組みは変わりません。
議会と言えば、国会中継のような問答を想像されるかと思います。
議員が質問を行い、役所が回答をするのです。
おそらく有名な話だと思いますが、ここでの議会答弁のやりとりは、完全アドリブのガチバトルではありません。
あくまで事前に細かく調整され、(多くの場合)質問文や回答文についても一字一句合意がなされた台本をお互い読み合っているパフォーマンスなのです。
このあたりは、現職議員お二人のこちらの記事もご参考に。
ただ、パフォーマンスとは言っても、議会における議事は記録・公開されますので、そこで出た発言が一定の重みを持つことは事実です。
テレビ慣れしてしまった僕らは、肉薄した丁々発止なやり取りを期待されるかもしれませんが、残念ながら議会は、テレビのためのエンターテイメントとしてやってるわけではありません。 むしろ、とても儀式的です。 どういう儀式かというと、「約束」の儀式です。 それだけ、議会での発言は重い、特に市役所からの答弁は、内容や答え方によっては、実質的に「〇〇やります」という約束を宣言したことになります。
(上記記事より、下線筆者)
では、その台本を書いているのは誰か。
これは経験的にですが、多くの場合において役所側の職員であろうと思います。
いやまあ、私も書いたことあるので。
横浜市会会議録より
横浜市会 会議録 平成28年 水道・交通委員会-03月16日−02号
繰り返しになりますが、この議会答弁というものは大変位置づけとして重いものです。
その答弁の台本、つまりは読み原稿がどう決まるかを、フローで示しましょう。
ちなみにとある自治体のとある企業部局での経験に基づくものなので、全国一律というわけではないはず。そしてこれは役所側の立場です。
- 係長以上の職員がグループを組んで議員控室を訪ね、議員の興味分野を探る(議員接触)
- ↑の内容を持ち帰って準備して議員を再訪。興味分野に関わる事業についてレクチャーをする。
- その際の議員の反応などを見て、持ち帰って質問項目を挙げる。
- 関連する課を集めて調整などをして、回答案まで作成した後、議員を再訪。(以下、固まるまで繰り返し)
- (答弁案が固まってきたところで)局長室にて部長級以上が集まり、ppt映写しながら回答文の再確認(勉強会)。ここで一字一句レベルの修正が行われる。
ざっとこんな感じでした。
この議会対応の時期が、関連する行政職員にとっては夏の予算要求と並ぶ繁忙期となります。
それもそのはず、議会対応という大義名分のもと、急速に庁内連携・調整が進むわけなのですから。
この庁内調整が、行政職員にとっては非常に面倒なのです。
それゆえに、フローの1である議員接触において、まるで腫れ物に触るかのような対応をしてしまうのです。
「先生、いかがでしょうかね?」のような。
ここでも、ヘタなことを言ってことを大きくしたくない、という決裁主義・文書主義の影響が見られます。
この議会答弁は、明確な起案者→決裁という手続きはとらないわけですが。
でも、局長のような職位最上位の人間の承認を必ず必要とするだけに、ある意味では決裁よりも煩雑だと言えます。
以上、役所の決裁主義価値観と、議会答弁という特殊な業務について書いてみました。
第3回以降は、「広聴」「あえて"レールに乗る"」をテーマに書いてみます。
よんむつのいる京島に再訪して、腱鞘炎になった話。
住居表示により町の線引きが変わっても、土着の信仰心まで機械的に線引きされることはありません。
町会や氏神信仰の範囲はそのままであることが多く、ある町丁目の一部だけ信仰する氏神が違ったり、区界を跨いだ氏子組織が存在したりします。
ここ墨田区京島も、そんな場所の一つ。
現在の地名は墨田区京島ですが、旧地名である寺島四丁目地区という単位で、氏神様"高木神社"のもとに集まる四丁目睦会(よんちょうめむつみかい)、通称よんむつと呼ばれる方々がいます。
(四丁目睦HPより)
7ヶ月前、高木神社の例大祭にて、お神輿担ぎのお手伝いをさせていただいたことがありました。
縁もゆかりもない地域に突然お邪魔させていただき、貸し半纏に腕を通し、助っ人余所者として神輿を担いだのは、去年の6月のことでした。
なぜそんなことが実現したのか?
何を隠そう、若者とお祭りを繋ぐマツリテーターである、一般社団法人マツリズムさんのお陰です。
今回もマツリズムさんの紹介で、例大祭のスピンオフ的な催しにお呼ばれしてきました。
それは、餅つき大会でした。
京島南町会餅つき大会
餅つきと言えば実家では12月30日のイメージでしたが、新年明けてからやることもあるんですね。
今回は1月8日でした。
この餅つき大会、正式にはよんむつの主催というわけではなく、あくまで京島南町会の町会イベントという位置づけ。
ただ実際の構成員はほとんど重なっているので、そのへんの区別は関係ない感じでした。
しかも餅つきだけではなく、消防訓練や地元消防の出初式というコンテンツも同時開催。
学校とか商業施設でなく、言ってみれば単なる道端に人が集まってくる光景は、なんだか久しぶりな感覚でした。
でも、ちびっこはいても若い人はいないんだよな。。。
そして肝心のお餅つき。
父親の実家では昔、12月30日に親戚が集って餅をつく習慣が残っていました。
親戚には好きな人も苦手な人もいたけれど、そこで育てられたのも事実なので、今では貴重な習慣だったのだなと感じます。
そんなわけで、臼や杵、せいろなどは小さい頃から見慣れていたはずなのですが、祖母が亡くなったことで集まる習慣も途絶え、目にしなくなって久しくなってました。
だからこんなのも、久しぶり。
久しぶりの餅つきは、感覚をすっかり忘れてハラハラしたり、杵の重さに腱鞘炎になったりしましたが、とても刺激的でした。
神輿の時のように、知らない地域のために貢献しているという感覚ではなく、純粋に個人として楽しかった。
ともに汗を流しながら、年齢にしてダブルスコア以上な方々とのコミュニケーションがきっと嬉しかったのだろうなー。
朝8:30から開始した餅つきも、12:30を過ぎる頃には既に苦行に。
それでも、終了後の宴でのビールや、つきたてのお餅は美味でした。
で、地域は誰が担うの?
やっぱり今回もモヤモヤはありました。
それは、我々がいなかったら餅つきはどうなってたの?ということ。
今回マツリズムを介して餅つき大会に参加したのは、20代〜30代の紛れもなく若者8人でした。
これは驕りなのでしょうが、餅つきについてはほとんど初心者ではあったものの、きちんと労働力として貢献できた自負はありますし、掛け声などで絶え間なく活気づけたりもしていました。
そんな我々が、いなかった場合のことを考える。
お餅をつまみ食いに来る小学生はいても、実際に餅のつき手となる、生産年齢の方々は面白いほどにいませんでした。
この地区では、70代でも力強そうな方々はいますが、それでも人数的な限界はあります。
この現状を取り上げて、地縁コミュニティの持続可能性を懸念するのは容易なこと。
よんむつのような"地域の担い手"と、地域を志向しない"地域の傍観者"とのマッチングは難しいのです。
でもそれが時代の流れであれば、それも仕方なかろうと思います。
ただ、マツリズムのように、"地域の担い手"と"地域の傍観者"をつなげることがエンタメになるのであれば、マツリズムのような取り組みの意義は大きいと思うのです。
"地域の傍観者"が、地縁という世界への入門方法をただ知らないだけなのであれば、そこをつなげてあげればよい。
やや煽りな章題でしたが、もはや地域の担い手は誰でもよいのかもしれません。
はい、そんなマツリズムが、次のお祭りを用意していますよ。(宣伝)
Ma-tourism in Oshu 2017(黒石寺蘇民祭)
公務員三回生中退の身から見た、「なぜ行政のフットワークは重いか?第1回 文書主義」
年度末の仕事ラッシュにさっそくロックオンされ始めた私です。
ちゃんと三連休したかった。。
さて本日は、特有の意思決定のメカニズムをはじめとした、行政組織の特殊性について書いてみたいと思います。
始めに立場を明確にしておくと、この発信を通じて行政組織を批判したいわけではなく、"良い付き合いのためには、まず相手を知ること"という考えに基づくものです。
行政組織、自治体、役所。
単に受益者として生活していれば、ほとんどこの存在を意識することはありません。
そんな方々にとって行政という存在を意識するのは、「税金("年金"に変換可)高ぇーよ!」とか、「お役所、安定ですね(皮肉」という場面くらいでしょう。
しかし最近、全国的に少しずつ増え始めたと感じる、提案や具体的行動によって社会制度にメスを入れようと考える方々にとって、行政組織というものの存在は身近になってきたのではないでしょうか。
もちろん、従来からある町会・自治会といった自治組織にとっても、行政組織は身近な存在であり続けます。
そんな方々は、行政組織特有のフットワークの重さや、融通のきかなさといった特性に対して、舌を巻く場面に直面することがあるかもしれません。
「どうしてこんなに有益な提案が、通らないのか?」
「気づけば役所のレールに乗ってしまっているのはなぜか?」
そんな体験は、そんな人達があらかじめが抱いていたネガティヴな役所イメージをいっそう助長し、さらなる悪循環や敵対意識を生んでしまっているかもしれません。
私が役所内で働いた体験を通じてみても、確かに役所は独特の意思決定手続きや価値観を有しており、"全体の奉仕者"という言葉からイメージされるような、あまねく住民を救う存在ではないと実感することがありました。
今日はその、「なぜ役所はそうなのか?」ということを、実体験からわかる範囲で書いてみます。
短い経験ではありますが、少しは役に立てたり、面白いことが書けるのではないかと思っています。
第1回
こんな現象が"役所的"
誰しもが、戸籍や税金関係の手続きで、市役所の窓口に行かれた経験はあると思います。
その際に、こんなことはなかったでしょうか。
職員「その件については○○課の担当となっておりますので。。」
もしくは、行政主催の説明会などの場面で。
説明会の意図とは異なるけども、確かにまちづくりであり、行政が所管するテーマに関する意見が出されたのに対して。
職員「その件については、所管の○○課に伝えておきます。。」
住民にとってはすべて同じ役所であり、共通ではないかと思ってしまう場面。
だから、ある行政職員に伝えた意見や陳情が、直ちに行政組織全体に伝わったようにとらえてしまいがちです。
しかし悲しいかな、行政組織は一枚岩ではないのです。
行政はあまりにタテ割り的である上に、不測の横の連携は避けるようなふるまいをしがちなのです。
文書主義・規則主義が生むタテ割り行政
前述のようなタテ割りの弊害が、なぜ起こるのか。
それは役所の最大の特徴の一つである文書主義の枝葉の一つです。
役所の仕事は基本的に、決められた規則類に従わなければなりません。
その規則類を例規といい、規程→規則→条例の順に扱いが重くなります。
ちなみに最も重い条例は議会での可決を要するもので、"自治体の法律"とも呼ばれます。
例えば役所のタテ割り主義もこの文書主義に基づくもので、「事務分掌規則」(名称は自治体による)に定められています。
参考に、横浜市のものを示しておきます。
これは局課までを定めたものですが、より下位の規程にて、課に属する係の単位まで仕事内容が決められています。
おそらく、係によって仕事が規定されるというこの傾向自体は一般企業にもあるのでしょうが、行政組織はきわめて露骨なのです。
その一例は、日付主義。
請負人や受託者の身分になると、役所に様々な文書を提出する必要が生じます。
それらの文書には当然日付の記入欄があるわけですが、ここを空欄にしておくことが行政担当者にとってどれだけありがたいことか。
例えば工事における、工程表。
横浜市の工事請負契約約款では、契約後7日以内に監督に提出することが決められています。
しかし、実際は契約を司る部門と工事監督を司る部門が異なる上に、審査・契約書作成等の手続きに一定の時間を要することから、契約日から一週間以上経った後にようやく担当課と工事請負人が顔を合わせるということが珍しくありません。
正直な感覚で工程表を提出するのであれば、提出は契約よりも10日程度後の日付となるはずですが、それでは約款に反することになってしまいます。
行政担当者にとって、それはリスクです。
業務書類は決められた保存期間保管する必要がある上に、"規則に従って職務を執行しているか"をチェックする仕組みである監査の目もあるので、日付程度でリスクを被ることはつまらないのです。
また、請求書の請求日も同様です。
工事では、請負人が監督に工事の完成を通知した後、14日以内に検査合格を告げられれば、代金の請求債権が発生します。
それを受けて、行政は請求日から40日以内(横浜市では20日以内、前払金は14日以内)に実際に支払う義務があります。
しかし実際は、行政の支払い事務は日付が決められており(金額によっては1.5回/月程度)、正直な請求日から数えて適切な日数以内に支払日がないことも現実にあり得ます。
ゆえに、ここでの正解はいずれも、日付を空欄にして提出することなのです。
実際に今の業務においても、「あ、日付はこちらで入れますのでー」というやりとりが日常茶飯事です。
慣れればなんてことはないのですが、気持ち悪いのが、実務上やむをえないこの事前日付調整・内部記入といった手続きに対して、行政の出納部局は"好ましくないこと"としていることです。
どちらも規則主義・文書主義を守った結果ではあるのですが、ひずみとしてこのようなねじれ現象も起こってしまうのです。
予算主義・計画行政は、柔軟な庁内連携に不向き
予算主義ということも、行政組織特有の価値観ではないでしょうか。
役所では、年度ごとに使うお金の予定を予算、会計の結果を決算として、議会の承認を受けなければなりません。
極端な話、予算未決の状態で年度が開始されてしまうと、行政組織は仕事ができないのです。
ゆえに毎年度、万全の状態でつつがなく予算通過をさせるため、説明文書の作成に勤しみます。
それが、事業計画書と呼ばれるものです。
これは、行政組織が事業別に予算要求をする際に添付する参考資料です。
なぜこの事業にお金が必要なのか?
年次計画はどうなっているのか?
といったことが記述され、予算議会における資料にもなります。
公開版には金額に関する内容は黒塗りされ、合計金額しか表には出ませんが。
こうした資料を、基本的には課単位で作成します。
そう、課の仕事は、その課で完結的に決定しまうのです。
「うちらが来年度やる仕事はこれです」という、一種の宣言です。
これが、行政組織が持つ第二の特徴、横連携のしにくさにつながってくるのです。
事業計画書のくだりからは、課の独立性が過剰に高いことが言えます。
年間の業務計画や意思決定を課単位で立案→決定してしまうことから、柔軟な庁内他課との連携がしにくいという構造的な特性があります。
もう少し補足しましょう。
わかりやすくするために、X市という自治体にA課とB課があり、このA課・B課が連携することで、今よりも有益で斬新な事業ができるのではないかという提案が、市民からA課に対してなされたとします。
ここで、100歩譲って、A課は偶然手も空いており、提案事業に着手するのに特別な予算を必要としない上に、気概ある職員が"この事業は是非やろう"となったとしましょう。ここまででかなりの奇跡を必要としているわけですが。。
でも、それによってB課の仕事も増えてしまうのであれば、A課は手を出せないのです。
ここで、A課とB課が話し合うこと(=調整)が必要となります。
でも、当初の計画になく、新たに手間が増えるのみの仕事を受け入れるかどうかは、担当課の良心に委ねられています。
B課がNOと言えば実現されないわけですが、YESという可能性はきわめて低いものでしょう。
別にその課にとって、やらなくてもよいのだから。
残業時間を課単位で抑えるようなプレッシャーがあったり、新たに手間をとるという選択肢をすることは考えにくいのです。
「今後実施可能性について検討を行なっていく」とか、「当初計画になく不公平性の問題があるため、着手は困難である」といった言葉でお茶を濁すことになるでしょう。
そんなことから、柔軟な庁内連携というものに対しては及び腰なのです。
またそれゆえに、例外的に実現した"庁内連携"を過剰にPRする傾向もあります。
連携は手段でしかないのに。
※もちろん、意識ある重役の肝入りで進められるような、トップダウン的な連携はありえます。
以上、役所のタテ割り主義と横連携の難しさについて書いてみました。
第2回では「議会答弁・広聴と決裁主義」「あえて"レールに乗ってやる"」をテーマに書いてみます。